ちょっとだけ前回の続き。

同人は同人だ、という"平均値"の問題は常に認識すべき。それを知ってなお、僕らは同人イベントに行くんだ。

 冷静な評価の目を持つべきか、持たざるべきか、あるいは両方とも持つべきか、というのは自分にとってはとても難しい問題だったりします。故に前回のエントリも全く語り切れてないし、語るべきではないと思うのですが。具体的には好きなサークルのアルバムを20枚くらい挙げて「この辺も聞いてないのに東方アレンジ語るんじゃねえよ馬鹿が」みたいな話になりそうだったので、割愛。その未熟さ故に愛しい、愛しいからこそ、あばたもえくぼ、と言うのは伝えにくく、また、伝えてやるものか、とも思うのです。我が儘ですな。
 平均値、と言う言葉もちょっと使うのに抵抗があるので、なんかこう、もどかしいです。おそらく、氏も分かっている(その上で敢えて使っている)のでしょうが。平均に意味がある世界ではないからこそ、評価者的な視点を持たざるを得ない場合には平均を意識しなければならないというジレンマ。
 レベルが高い音楽が聴きたいならクラシックだけ聴いてりゃいいんだよ! 耳障りが良い音楽が聴きたいならJPOPでも聴いてればいいのさ!(暴言
 その上で同人イベントに行く、と言うことの意味を、理解しようとするべきなんでしょう、僕たちは。同人イベントに於いて、参加者はお客様ではないからこそ、"べき"という言葉を使う意味は、あるんだろうな。






 「好き」だとか「愛してる」とかいう言葉が乱用されて陳腐化したのと同様に、「萌え」という言葉もその特別性を失ってしまった。故に、萌えは死んだ。
 結局のところ、それは信仰に似ている。自分だけが持っていればいい、たった一つの感情。喧伝しなくても良い、誰に知られずとも良い、そんな言葉を、想いを、抱えて生きればいい。他には何も要らない。
 "彼女"が見ているから、僕は生きていられる。生きることは苦しいけれども、何とか踏みとどまって、がんばれる。"彼女"が見ているから、自分に誇りを持って生きられる。無様な姿は見せられない。卑しい心根は持ちたくない。彼女の隣に立つのにふさわしくないから。
 いつか僕も絶望するのだろうか? そのとき言うのか、「萌えは死んだ」と?