あまりにもSS更新していないので、以前没にした物でも晒してお茶を濁しておこう。ああリファインしてぇ。でもそんな時間はないw








 何時からか、誰も正確には覚えていないけれども。去年だったか、一昨年だったか――
 少なくとも、志貴が離れで療養生活に入ったのよりは後だったのだけは確かだ。だから、もしかすると志貴だけは知っているかもしれない。
 だがまぁ、そんなことは些細な事だ。誰も気にする人など居やしない。


 分かっている事は一つだけ。
 遠野家の住人に、小さな黒猫が加わった。ただそれだけのこと。
 ただ、それだけ。














『黒猫のいる穏やかな生活』














「失礼します、兄さん」
 そう言いながら、秋葉は離れの戸を開けた。
 以前はめったに来ることも無かったこの離れにも、ここ2、3年は時間を見つけてはそれなりに頻繁に来るようになった。ここのところは仕事の方もなかなか忙しくなっていて、あまり時間も作れなくなってしまったが、それでも時間ができた時には多少無理してでも来るようにしていた。
「やあ――秋葉」
 それは、ここに志貴がいるからだ。
 志貴は作務衣姿で縁側に腰掛けている。手元には湯飲みと急須、それに茶菓子。茶道具と湯を沸かすための台所くらいはこの離れにもあるものだが、茶菓子は翡翠琥珀が持ってきたのだろうか。見れば殆ど手をつけられた様子もない。
 秋葉は軽く溜め息を吐いた。部屋の中を通り抜け、志貴のすぐ隣に腰を下ろす。
「調子はどうですか、兄さん」
「いつもどおり。良くはないけど、悪くもないよ」
「……そうですか」
 問いに答える言葉は、いつも同じ。
 だから秋葉は納得する。してみせる。志貴の調子がいつもどおりなのは、見れば分かるから。
 いつもと同じ体調。それは、一日の半分は寝て過ごさなければいけないということ。満足に外出することすらできないという事。満足に食事をする事もできないという事。それが。いや、それでも。いるかどうかも分からない神に感謝しなければならないほど、良い状態だという事。今にも崩れそうな、危ういバランスの上に成り立っているという事。
「そんな顔するなって、秋葉」
「そんなって……どんな顔をしていたんですか、私は」
「うーん、」
 少し志貴は考え込むようにして、
「酷い顔、かな」
「酷い顔、ですか」
 秋葉は顔をしかめた。
「そうそう、そんな顔」
「え?」
「だからさ。眉しかめて、いかにも困ってます、みたいな。仕事してる時じゃないんだからさ。ここにいる時くらい、そんな顔しないで欲しいな」
「……そうですね。すみません、兄さん」
 謝られても、と志貴は苦笑する。そしてふと気付いたように、
「そういえば、秋葉にお茶も出してなかったな。今淹れるから、ちょっと待っててくれよ」
「あ、その、兄さん」
 立ち上がろうとした志貴を、秋葉は呼び止めた。
「お茶ぐらい自分で淹れますから、兄さんは座っていてください」
 そう言って秋葉は立ち上がった。
 自分の分と、ついでに志貴の分の茶を新しく淹れなおす。
 それを持って、再び志貴の隣へ。
 差し出した湯飲みを、志貴は微笑んで受け取って、一口。
「秋葉もお茶を入れるのがだいぶ上手くなったな。前は失敗ばかりだったのに」
「練習しましたから。……まだ、琥珀にはかないませんけれど」
 ははは、と志貴は笑う。
琥珀さんの淹れてくれるお茶は本当に美味しいからなぁ……あれは無理。どうやっても真似出来ない」
 志貴がそういうと、秋葉は少し拗ねたように、
「今はまだまだですけれど。いつかは琥珀より上手くなってみせます」
「でもそれ、だいぶ先の話だと思うぞ?」
「良いんです。壁は高ければ高いほど乗り越えがいがあるというものです。だから、」
 言葉を続けようとして、思いとどまって。
 気持ちの高ぶりを抑えるように、一回、息を吐いて。
「だから……兄さん。それまでは、練習に付き合ってくださいね」
 秋葉がそう言うと、志貴は微笑とともに、
「もちろん。いつまでだって付き合ってやるよ」
「ええ。お願いしますね」
 そんな志貴に、秋葉も微笑で答えた。きっと、自分はうまく微笑えていただろう、と思う。






 現実はいつだって厳しいものだ。
 真実はいつだって辛いものだ。
 だから。
 この穏やかな時くらいは、それを忘れていたいと思ったって、いいと思うのだ。
 それが直視しなければならないものだとしても。一時の間くらいは、それを忘れていたいと思うのだ。
 だから。
 だから……それまで生きてください、なんて。
 言えるはずもないのだ。
 言って良い筈もないのだ。
 そんな事、言われるまでもなく。
 志貴こそが、それを一番良く知っているはずなのだから。






 穏やかな時間が流れていた。
 時々、一言二言言葉を交わし、ゆっくりとお茶を飲んだ。
 二人で眺める庭の景色は、全くと言って良いほど変わらない。だが、変わらないが故に小さな変化に気づく事ができた。
 この前――先週のことだったろうか――来た時には咲いていなかった花が咲いていた。反対に、散ってしまった花もあった。
 僅かに葉を落としている木もあれば、新芽らしきものが見え始めているものもあった。
 それは、一つ一つ見ればなんでもない変化で。きっと、大きな変化ではない。
 けれど、季節はこうして移り変わっていくのだ。
 自分の目の届かない所で。本当に少しずつ、けれど確実に。
 今まではそんなことを気にしたことも無かった。
 季節の移り変わりを、自然の美しさを解する方法は教えられた。それは文化であり、技術であり、教養であったからだ。学習によって習得するもの。感じるものは固定され、表す方法もまた一定だった。
 けれど、自然を感じる方法は教えられた事が無かったのだ。そんなもの、必要ではなかったから。
 移り行く景色を時折眺めては、その雅について言葉を発する。
 それは社交術であり、言い換えれば政治であった。
 それができないわけには行かなかったが、それができればそれで十分であった。それ以上の意味はなかったからだ。
 だが、今はそんなものは必要が無かった。
 志貴の隣では、そんなものは必要が無かったのだ。
 感じた事を、飾らず己の言葉で発する。
 何かが返される事がなくても良い。「そうだね」という言葉一つでも、頷き一つでも十分だった。
 無為に過ごす時間。
 そう言っても良いだろう。
 だが、この時間が無駄な時間だと、意味の無い時間だとは思わない。秋葉はそう思っていた。






 にゃぁ、と鳴き声がした。
 見やると、庭の隅のほうからゆっくりと猫が歩いてくるところだった。
 毛皮の色は、美しい黒。烏の濡れ場のような、混じりけのない黒だ。
「やぁ、また来たね」
 と言う志貴の言葉に答えるかのように、黒猫は再び、にゃぁと鳴いた。
 ゆっくりと歩いてきて、志貴と秋葉の座る場所からは少し離れた縁側の、日の当る場所に横になる。
 秋葉は志貴の方を見た。
 秋葉の疑問に気付いたのか、志貴は僅かに微笑んで、
「ああ。ちょっと前から来るようになったんだよ。たぶん、庭の隅っこのほうにでも抜け道があるんじゃないかな」
 と、とても嬉しそうに言う。
琥珀さんに頼んで餌になりそうなものを用意してもらったりもしたんだけどね。翡翠にも手伝ってもらったりもしたんだけど、なかなか懐いてくれなくて。最近やっと、ここまで慣れてくれたよ」
「そうですか」
 声に不満の色でも滲んでいるように聞こえたのだろうか、志貴は慌てた様子をみせる。
「い、いや、これは別に秋葉には隠してたとかそういうわけじゃなくてだな、その……なんというか、そう、あれだ。機を逃したというか、めぐり合わせが悪かったというか」
 昔と同じ、下手な言い訳。
 そんな、いつまでたっても変わらない志貴の様子がおかしくて。
 秋葉はくすくすと笑いを漏らしてしまう。
 そんな秋葉の様子に少し驚いたような顔をしてから、
「まいったな」
 と、独り言のように言い、志貴は苦笑する。
「でも」
「うん?」
「今度からは、私にも教えてくださいね」
 そこまで言ってから、秋葉は少し目を伏せるようにして、
「その、私だけ仲間外れというのは寂しいですから」
 少しの間、沈黙が流れた。
 秋葉は少し恥ずかしそうな様子で、さりげなく志貴の方から視線を外している。
 志貴はどうしたものかな、言う表情で頬をぽりぽりとかいている。
 そんな二人の様子など知らぬと言いたげに、猫は横になったまま日光浴を満喫している。
「そういえば」
 と、志貴が唐突に言った。
「名前、まだ決めてないんだ」
「え?」
「いや、だから猫の名前。いつも、『あの猫』とか『黒猫』とか言ってて。名前を付けてないんだ」
「そう、なんですか?」
 戸惑う秋葉。
「でも、ここに住み着いている猫だ、というわけではないんでしょう?」
「ん? ああ。そういうわけじゃないけどね。でも、どこかで買われてる猫だってわけでもないみたいなんだ」
 ほら、と志貴は猫の方に視線をやりながら、
「首輪みたいなものも付いてないし」
「ああ、そうですね」
 確かに、猫にはその猫が飼い猫である事を示すような物は何も付いていなかった。
 人に飼われている猫ならば、万が一の場合に備えて首輪や迷子札のようなものを付けておく事が多いと思うのだが。
「でも、野良猫にしては綺麗過ぎる気もしますね」
「うん、それはそうなんだよな」
 少し考えるようにして、志貴は、
「でも、どっちにしろ、名前くらいはつけてあげたいなぁと思って」
「それで、どんな名前にするんですか?」
「いや、まだ決めてないけど」
「兄さん……」
 と、秋葉は嘆息した。
「そんな顔で言っても、全く説得力がありません」
「え?」
 まったく、といった様子で秋葉は腕を組んだ。
「分からないと思っているんですか? 兄さん。もう決めた名前があるんでしょう?」
「いや、えーと」
 はぁ、と秋葉は溜め息。
「私の事は良いですから、兄さんの決めた名前を付けてあげてください」
 志貴は、困ったような顔をした。
 少し迷って、結局、決めていた名前を口にする。

「レン、にしようかと思うんだ」

 志貴は、その黒猫の方を見ながら言った。
「"恋"って言う字を書いて、レン。女の子だったしね」
 そこまで言ってから、似合わなかったかな、と照れ笑い。
「いいんじゃないでしょうか」
 秋葉はその名前を舌に乗せてみた。
 レン、恋、レン。
「いい名前じゃないですか」
 確かに男の人が、志貴が名付けるのは少し恥ずかしい名前だったかもしれない、と秋葉は思った。
 けれど、いい名前だとも思った。
 単純な、一言で言えてしまう名前だけれど、柔らかくていい名前だ。
「そっか。それなら、よかったんだけど」
 志貴が安心したように言う。
「よし、それじゃ、君の名前はレンだよ――」
 レンと、そう名付けられた黒猫は、そんな事など知らぬと言うような顔をしていた。
 もしかすると聞き耳を立てていたのかもしれないけれど。
 でも、そんなこと、二人にはわからないのだった。










 そうして、今日もまた。
 穏やかな一日が過ぎていく。