シン・ゴジラ見てきました。
 見終わってからの第一声が「凄いものを見てしまった」だったあたり我ながらアレですが。
 以下ネタバレありの感想なので格納。勢いで書いてるので支離滅裂でもご容赦。










 さてさて。
 まず自分語りから入ると、ゴジラの映画を見るのは実はこれが初めてです。怪獣映画ってくくりにしても、うーん、確かモスラ2(レギオン襲来)以来ということになりまして、まぁ怪獣映画という物とはあんまり縁の無い人生を送っていました。そもそも映画自体をあんまり見ない人で、それこそこの前映画館まで見に行った映画ってエヴァQになるんじゃないのって感じですし、よく考えなくても普段からアニメとかテレビを殆ど見なかったりします。
 つまりはそんな人の見た、シン・ゴジラです。


 「レベルを上げて物理で殴る」というスラングがありますが、見終わってからの第一声が「凄いものを見てしまった」で、帰り道での一言が「情報量を上げてリアリティで殴られた……」でした。"リアル"ではなくて"リアリティ"なのがミソですが、後述。
 とにかくもって序盤から終盤まで濃密な情報をこれでもかこれでもかと突っ込んでこられたなぁ、というのが印象です。やたらめったら具体名を示して出るテロップ、会話中に差し込まれる"それらしい"専門用語の数々、人間が動かす組織らしい、人、人、人。明らかに無駄な情報も沢山あるのですが、ディティールを延々積み上げることで、力業でリアリティを演出していきます。
 とにかく、そうしてリアリティ(繰り返しますが、"リアル"ではない)を積んで積んで積んで積んで――できあがった重りを天秤に乗っけて、反対側に"ゴジラ"というリアリティの欠片もない虚構をでん、とマウントしたのが、シン・ゴジラではないかと。


 いや、正確に言うと、逆なんでしょうが。


 とにかく、最初に「ぼくのかんがえたさいきょうのごじら」をどうにかして表現したい、という欲望を設定します。
 しかし、ゴジラ本体の設定をどれだけ盛り盛りにしても、それ単体では設定厨の作った机上の怪獣がまた一匹増えただけです。ゼットンが1兆度の火の玉を吐くならこっちは10兆度の火の玉、いや盛りに盛って1000兆度だ! ってやっても怖さや凄さが1000倍にはならない。これは当然のことです。ゼットンは、今まで常に勝利し続けてきたウルトラマンを倒すことで恐怖を手に入れたかもしれませんが、この映画にウルトラマンは出てこないのです。しかも、これは怪獣映画なのです。フォーマットがあります。怪獣は東京を襲うし、最後は人間の手によって倒されなければなりません。もちろん、最後にゴジラが勝って人類滅亡でも別に良いんですが、それはされなかった。まぁ、ヲタクですからね。やりたいのはきっと、そういう話じゃないんですよ。「ぼくのかんがえたさいきょうのごじら」で怪獣映画をやりたかった、だけですよね。
 話が逸れましたが、とにかく怖くて強いゴジラを描きたいのです。誰とは言いませんが、とにかくそう考えました。
 怪獣の最大の弱みは、「現実に存在しないこと」です。
 犬に噛み殺されることは、現実にあり得ます。戦車に踏みつぶされ殺されることは――まぁ、現代日本に生きる我々にはようようあり得ないとは思いますが、戦車が現実に存在する以上あり得ないことではありません。では、ゴジラに踏みつぶされることは――?
 とにかく、どんな事象を描いても、それ単体では現実感を描けない、それはもうそういう物だとしか言いようのない話ではないでしょうか。ゴジラそのものにリアリティは微塵もありません。
 ですが、ゴジラの反対側にリアリティを乗っけることは出来ます。
 「日本(現実)対ゴジラ(虚構)」というコピーがどこまで意図していたのかはおいておいて、まさしくこれ。
 ゴジラという虚構の塊を天秤の片側に置いて、その反対側に現実っぽさ――リアリティを、これでもかと乗せたのが、シン・ゴジラです。天秤のリアリティ側に乗せる物は、多ければ多いほど、重ければ重いほど良いです。それと釣り合っている(ように見える)虚構側にも、必然的に同じだけの重量がかかっているように見えるわけですから。
 故に、全ての描写はゴジラという虚構を現実のものと見せるために存在します。
 人間側の方で描かれるディティールは可能な限り細かくするのが必然です。日本政府という組織は会議体による意思決定と官僚機構による理論の積み重ねでできており、それが描かれることがリアリティになります。首相が緊急事態を宣言してトップダウンの独裁組織に一夜にして作り替えてしまったりしたら、完全な絵空事になってしまうので、それは絶対にあり得ないことです。
 描かれる人間達の有能さも、必然的な物です。ゴジラの反対側にマウントされる――つまり、ゴジラから見て敵側になる――存在が、万が一にも無能の集団だったらどうなるかという話です。無能な人間すら滅ぼせないゴジラは「ぼくのかんがえたさいきょうのごじら」ではありません。どんな時でも諦めず、常に最前の手を尽くし、最後の最後まで抗ってくる最強の敵、それが「人間」です。そういう風に描かれないと、その反対側にマウントされるゴジラが弱くなってしまうじゃないですか。
 人間ドラマも、必要ありません。愛や勇気や絆みたいなあやふやな物で倒されてしまったら、ゴジラは「その程度のあやふやな存在」だったことになってしまいます。
 反対側に乗っている人間達の全力と希望を完膚なきまでにたたきのめして、夜の東京を火の海に変えるからこそ、あのゴジラは圧倒的な恐怖と絶望を持っていたのです。観客に「こいつらアホじゃねーのなんでこれやんねーんだよプゲラ」って思われたら恐怖は発生しません。観客の思いつくような解決策を全力で叩きつぶして、「ヤベぇよこいつどうやって倒すんだよ……」って思わせないと絶望は発生しません。


 そんな風に、必然の塊でできていたのが、シン・ゴジラです。


 とはいいつつも後半はやりたい放題でしたが!
 新幹線爆弾とか在来線爆弾とかツッコミどころ満載でしたからね! 倒す手段もビルぶつけてこかして動けなくするとか、脳内で「お前!お前ーっ!」ってなってましたからね。それでも一波目が壊滅したあたりで、あれ、もしかしてこれヤバない?やっぱり勝てなくない? ってなったあたり、そこまでに仕込まれた恐怖と絶望がめっちゃ効いていたのも事実でしたが。
 これ以上動かないんだ、って分かった瞬間の爽快感なんて殆ど無い、あの安堵感。
 いやあ、凄い物を見たな、という感じにもなりますよ。


 プロット的には、もっと複雑な話にも出来ただろうし、人間ドラマというか、もっと愛とか絆みたいなものを入れ込むことも出来たんでしょうが、それらをばっさりと切り落として、"人間の組織が総力戦で困難に挑むこと"(と同時に"挑まれるべき恐怖と絶望に満ちた怪獣")を集中して描いたことが、効果としてすごくよくでたな、という感じです。(でも深遠なテーマとかなくて「ぼくのかんがえたさいきょうのごじら」がやりたかっただけですよね絶対)
 反対側に積まれたのが"リアリティ"であって"リアル"でないのは、"リアル"の人間はそんなに強くないからでしょうね。人間はもっと弱くて愚かな存在ですが、そういう要素を入れると、それと対峙するゴジラも一緒に弱くなっちゃうんですよ。「ゴジラは人間に負ける」というフォーマットを守るという縛りがある以上、弱い存在に負けるゴジラを描きたくなければ、勝者側の人間を徹底的に強く(といってもリアリティの範囲内で。超人が出るとそれはそれでリアリティが無くなってしまうので)描くしかありません。


 色々書き連ねてきましたが、いや、見て良かったなぁと。
 機会があればもう一回くらいは見に行きたい感じですが、初見で感じた物はどんどんと薄れていってしまうだろうなぁと思いつつ。
 そんな感じで。